恋の手立て - 和歌

源氏物語の時代、和歌は重要なコミュニケーション手段でした。和歌を通じ男女が知り合い仲良くなっていき、女性宅に招き入れられ結ばれる。その後も和歌を詠み合って愛情を確かめ合う、、、そんな風だったようです。

どこそこに良さそうな女性がいると聞いた男は万全を期して和歌を女性に贈る。女性側(取次の女房が男を値踏みするので女房対策も必要)に好印象を与えるため、和歌そのものの内容は勿論どんな紙にどんな墨を使いどんな書跡書体で書くのか、そして然るべき花木につけて和歌を贈る、、、大変に神経を使うのです。逆に女君もうかつな返事はできない。いろいろな駆け引きが繰り広げられるのです。優秀な女房が果たす役割は大きいのです。

そして後朝(きぬぎぬ)の朝、男は帰ってすかさず思いやりを込めた歌を贈らねばならない。帰りの車中、不埒な男は居眠りでもしてたのかも知れませんがちょっと気の弱い男などは和歌が気になって仕方がなかったのではと心配してしまいます。後朝の文、タイミングが大事で愚図愚図してて出しそびれたなどとなると大変なことになる。

後朝の文のこと紫式部は色々と小道具的に使って物語を進めて行きます。うまいもんです。末摘花への後朝の文はなおざりにしてしまったとか、夕霧が雲居雁に手紙を取られ一条御息所への返事を出し遅れたとか、、、。(後朝の文ではないが、事が発覚するのも和歌・手紙を見つけられてのことが多いのです→柏木の密通がバレルところが圧巻)

源氏物語の中で和歌・手紙の果たす役割りは誠に大きいのです。

→是非、各巻2つ、和歌を憶えましょう。。

カテゴリー: ウオームアップ パーマリンク

恋の手立て - 和歌 への5件のフィードバック

  1. 青玉 のコメント:

    貴族社会の男女のコミュニケーションは「和歌」とのこと
    もしも和歌の素養がなければ恋人はおろか結婚もままならないですね。
    取り次ぐ女房の果たす役割りも大きいわけです。
    催促や、たまには代筆もしなければならなかったでしょうに。

    見目麗しくなくても和歌が優れていれば素敵とお互いに意気投合。
    でも源氏は末摘花には後朝の文は贈らなかったと言うことはやはり見目も大事なのでしょうか?
    良きお相手に巡り合えるのは先ずは和歌の達人になることが第一条件。
    さてその和歌を学ぶ機会は貴族社会では家庭教育の役割だったのでしょうか。

    毛筆の素養も必要ですし、紙質や墨の色、どんな香をたきしめるとか神経使いますね。
    その場で和歌を返すとなれば思案している暇もなく即興で作らなければいけないし。
    男女とも大変ですね。疲れます。
    若菜を読み終えたばかりですが、女三宮が隠した文のところではハラハラしました。

    読むのに精いっぱいで歌を味わう余裕もないのですがお気に入りの歌を見つけたいです。

    • 清々爺 のコメント:

      五七五七七、三十一文字。この定型で思いを伝える、コミュニケーションの極致でしょうか。お互い教養の基礎・下地がないと成り立ちませんね。それだけに皆切磋琢磨したのでしょう。この辺、明日の稿にもう少し書いています。

      五七五になると一瞬を捉えた一幅の絵画にならざるをえない。絵と俳句は通じるのでしょうか、それなら両方下手なことも納得できるのですが。。

  2. 式部 のコメント:

    和歌が苦手な男の話をします。枕草子の中にある話です。左衛門の尉即光(清少納言の最初の夫)が清少納言からさしだされた歌に対して「歌詠ませたまへるか。さらには見はべらじ」とて逃げ帰った、とか「おのれを思さん人は、歌をなむよみて得さすまじき。すべて仇敵となむ思ふ」とかあります。「検非違使」(武官)だからこれでもゆるされたのでしょうか。
     ふたりは別れてからも妹背の仲で、なかが良かったようです。和歌が苦手な即光はからかわれていながら、それはそれで良い関係だったのでしょう。

    • 青玉 のコメント:

      式部さん、有難う!!
      そうですよね。皆が皆、和歌の達人とは限らないですものね。
      努力もあるけどこの道、天性のものが大きく左右しますものね。
      清盛だって大河ドラマの中ではとんでもない歌を詠んでいましたものね。

      即光、憎めないですね。別れても仲良しだったのは頷けます。
      夫婦は同じ道に秀でていない方がうまくいきそうね。
      プラス、マイナスの関係です。

    • 清々爺 のコメント:

      さすが式部さん、枕草子の紹介ありがとうございます。ちょっと読み返してみました。

      そりゃあ武骨で苦手な人もいますよね。左衛門の尉も清少納言にはかなわなかったのでしょう。そしてその段の少し後に中宮定子から歌人である父清原元輔を引合いにだされて歌を詠むように促された清少納言が父ほどには詠めませんと躊躇する件がありますね。上には上がある、清少納言も困ったことでしょう。

      紫式部も清少納言も歌人の系統、でも曽祖父(藤原兼輔)、父(清原元輔)を越えられない。それで違ったジャンルを目指し源氏物語(小説)、枕草子(随筆)に行ったという説もあるようですね(まあこじつけみたいですけど)。

      さて、源氏物語で武骨と言えば髭黒大将。歌は三首ほどで多くない。玉鬘を得ようと必死に訴えかけているのが何とも微笑ましいのです。

       →数ならばいとひもせまし長月に命をかくるほどぞはかなき(@藤袴)

コメントを残す